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広島のまちの誕生を知る【広島城で歴史を知る】

 



広島の都市誕生は近世広島城の築城から


広島の都市的発展の始まりが、近世、毛利氏による広島城の築城からと言われております。それ以前の中世では、このあたりの地は安芸の国と呼ばれ、政治・経済の中心の国府が府中(府中町)あたりにあったとされております。当時の太田川の河口は、現在よりかなり上流の現在の祇園付近と推測されております。その辺りには、年貢物など船に積みかえるなどの倉敷地があり、山陽道、中国山地、瀬戸内海へと、交通の要のようでした。叉、当時はこの地域が「金山城」を拠点にしていた武田氏の支配基盤にしておりました。。後に、北部の「郡山城」を拠点にしていた毛利元就が南下して領地の拡大を図って、武田氏など豪族を滅ぼし中国地方を支配しつつありました。日本をみると時は戦国時代、1467年から始まった応仁の乱は1573年室町幕府滅亡で終焉し、織田信長に代わって豊臣秀吉が天下統一へ。1588年跡を継いだ毛利輝元が、太田川河口の五ヶ村への築城を決めたとされる。広島のまちの誕生へと動き始めます。



ここでのご紹介は「見どころ」のほんの一部です!



古代・中世広島のようす

現在、市街地がある太田川下流域は、ほとんどが海中にあり、牛田・矢野・五日市や広島湾に浮かぶ島であった比治山に縄文時代の遺跡が、また、中小河川による沖積地を見下ろす丘陵を中心に、市内各地域に弥生時代の遺跡があります。律令制度下の地方政治は国府を中心に行われていました。安芸国では西条(東広島市)または府中(安芸郡府中町)に国府が設けられ、平安時代中期には府中にあったとされています。山陽道の推定ルートは、瀬野~中山~戸坂~上安~伴~大塚~石内、、、と、現在の太田川の河口の北川の山沿いを大きく巡るルートを取っていたと考えられております。鎌倉、室町時代を通して守護地頭が任命され、それまでの貴族から東国武士の支配に変遷し、それらが国人領主(在地領主)となり、やがて勢力拡大争いが始まり、盛んに山城が造られるようになりました。広島の近郊では、矢野城(野間氏)、八木城(香川氏)、、、等、200か所以上で中世の城郭が確認されているそうです。

【湯釜古墳】古墳の位置は広島市安佐北区小田胡麻谷の標高230mの所にあります。5世紀末~6世紀初頭と推定されており、大和政権の頃のようです。広島県には約1万基の古墳があるようです


【潮干の浜】二の丸は「馬出(うまだし)」太田川の河口は、三角州平野の氾濫原であり、砂州など自然地形の陸地化が進んでいったと思われます。室町幕府の九州探題に下向の折、海田から対岸の己斐あたりを通り現在の廿日市まで歩いたとも言われております。(絵は想像図)



築城へ、そして広島の誕生

毛利家は、大江広元の四男・季光(すえみつ)が父から相模国愛甲郡の森荘(毛利荘、神奈川県厚木市)を譲り受けたことに由来し、子の毛利経光が安芸国吉田荘(広島県吉田町)の地頭となり、室町時代に入ると周防守護・大内家の傘下に入ったことから始まります。貴族統治から関東武者の幕府統治となり、やがて権力の跡目争いが室町幕府の威信失墜を招き、日本全国を巻き込んだ「戦国時代」に入ります。朝廷に仕える下級貴族(官人)だったが、鎌倉に下って源頼朝の側近となり、大蔵御所公文所(後の政所)と鎌倉幕府の初代別当を務め、幕府創設に貢献した「大江広元」を祖とする「毛利輝元」が広島城を築城して、今の広島市の町を誕生させた事は、大変興味深く思われます。

【広島城関連年表】1563年に家督を継き1592に広島城を築く。約30年間で広島の町を作ってしまうスピードと激動の「戦国時代」を生き抜いた毛利輝元は広島の祖かもしれません


【毛利輝元】広島城、広島の街をつくった第一人者ですが、関ケ原の戦いに敗れて 周防、長門の2国に減封となり、剃髪して宗瑞と号し、子の秀就に家督を譲り、後見しました。


【福島正則】関ケ原合戦後、正則は徳川家康に仕えつつも時に豊臣家臣としても行動しましたが、そのような関係も慶長けいちょう20(1615)の豊臣氏の滅亡によって終わりました。城郭の無断修理を理由に広島49万石から信濃高井郡と越後魚沼郡の45千石に左遷されました。


【浅野長晟】財政の基本となる税制度の多くは、福島氏時代のものを継承し、その他、町や村の支配に関する制度も、概おおむね福島氏時代のものが継承し、それらを補強することで、藩制機構の整備が進められました。



日本は富国強兵、軍都へ

明治4年(1871)新政府による廃藩置県が行われ、翌54月に広島城下は広島県広島区と改められました。そして明治22(1889)41日、広島は全国で最初の市の一つとして市制を施行しました。その時の面積は約27平方キロメートル、戸数は23,824戸、人口は83,387人でした。宇品港の築港工事が完成し、宇品島へ至る青海原は広大な陸地となりました。さらに、山陽鉄道が広島まで開通しました。明治27年(1894年)8月に日清戦争が始まると、広島宇品間の軍用鉄道(宇品線)2週間余りの突貫工事により開通し、宇品港から広島の第5師団をはじめ多くの兵士や兵器、食糧が大陸へ送り出されました。同年9月には大本営が広島城内に移され、10月には臨時帝国議会も開かれるなど広島は臨時首都の様相を呈しました。以後、3日露戦争など相次ぐ戦争により、軍関係の諸施設が次々と設置され、広島市は、軍事拠点としての性格を強めていきました。

【廃城令】軍の施設建設のために広大な敷地を確保すべく、この法令により、全国の城郭は「存城」と、売却・処分される「廃城」に区分、多くの城が取り壊され、城内の石垣は壊され、堀は埋め立てられました。


【大本営跡】広島は、西への山陽鉄道があり、大型船が寄港できる宇品港があったことにより、1894年(明治27年)に勃発した日清戦争の戦争指揮のために、広島城内に大本営が設置されました


【軍都広島】多くの軍事施設が建設され、街の景観や人々の生活に大きな影響を与えました。軍服や軍靴の製造、食料供給など軍事関連産業が盛んになりました。旧広島陸軍被服支廠は,現存する国内最大級の被爆建物かつれんが建築物で


【比治山陸軍墓地】この陸軍墓地は1872年鎮台将兵の兵士を弔う墓地として創設された。西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、ノモンハン事件、太平洋戦争で戦死した、沖縄を除く、全国46都道府県・4500名余の墓が一基一基整然と建立されていた



原爆投下広島城が被爆

広島城天守は原爆の爆発爆風により崩壊したようです。 城内にあった表御門、太鼓櫓、多聞櫓、中御 門をはじめとする木造の建物はその後火を発し焼失しました。、本丸上段の天 守・旧大本営・旧昭憲皇太后御座所は焼失を免れ、建物は崩壊したままのようです。この他、城址内には大本営跡、中国軍管区司令部防空作戦室跡、被爆樹木など、原子爆弾の投下による惨禍が残っています

【被爆広島城】築城広島の歴史とともに歩んできた広島城天守。昭和20(1945)年8月6日の原爆で、天守は崩れ落ち石垣だけが残りました。被爆直後に撮影された写真には、がれきの山と化した天守の材木が写り、原爆のすさまじさを物語っています。[平和公園資料館]


【中国軍管区司令部防空作戦室跡】原爆投下直後、女学生がここの軍用電話を使って福山と善通寺の司令部に被害の様子を伝えたのが、広島の原爆被害を伝える第一報であったと言われています


【被爆樹木】広島の被爆樹木の中でもユーカリの木は広島城址この1本だけです。当時真っ黒こげでしたが、何か所か支えられながらも、今でもしっかりと生い茂り茂っています。


【被爆石垣】内被爆時の火災の熱で赤く変色した石が現存しています。













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