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高い天守の秘密を探る【大天守の探索で知る】

 



お知らせ
広島城の天守は、2026年3月22日閉館されます


広島の武家文化を紹介する博物館として親しまれている広島城天守ですが、コンクリートの劣化や設備の老朽化などの問題から、安全面を考慮し、令和8322日をもって約68年の歴史に幕を閉じることになりました。天守閉城までの時間はあとわずかです。閉城に向けて、企画展などのさまざまなイベントを予定しています。ぜひ、この機会に、広島城天守での思い出を作りませんか。
広島城天守は、現在のところ、解体の予定はありません。天守の外観は、引き続き鑑賞できます。
(広島市HPより引用)
 

【閉城企画展】天守閉城までの時間はあとわずかです。閉城に向けて、企画展などのさまざまなイベントを予定しています。ぜひ、この機会に、広島城天守での思い出を作りませんか。(広島市HPより引用)


【三の丸歴史館】広島城が担っていた博物館としての役目は、「広島城三の丸歴史館」に引き継がれます。現在、令和8年度の開館を目指して整備を行っています。新しく生まれる歴史博物館に、どうぞご期待ください。(広島市HPより引用)





天守は昔も今も城下庶民・市民のシンボル


広島城は、別の名を鯉の城、鯉城といい、広島東洋カープというチーム名もその鯉にちなんでつけられたものです。叉、サッカーのサンフレッチェ広島のチーム名は、毛利元就が
毛利家の将来のため、一家の頭領として三人の子どもに一致団結を切々と説き1本の矢なら簡単に折れるが、3本まとめて束にすれば折れない。それと同じように、3人が力を合わせれば、誰にも負けることはない」と諭したと伝承されています日本語の「三」とイタリア語の「フレッチェ(矢)」をあわせて作った造語で「三本の矢」を意味しています。広島城は、広島の戦後復興の象徴であり、天守とともに生き抜いた市民の心のよりどころとも言われております。

二基の小天守を従えた古式な望楼型五重の大天守


ここでのご紹介は「見どころ」のほんの一部です!



平地と水堀に囲まれ平城に建てられた天守

広島城は、三角州の平らな場所に造られた城(平城)ですから、地形的な制約を受けずに城郭が作られました。反面、防御に自然地形を利用することが出来ないため、防御をより強固にするために、内堀・中堀・外堀の三重の堀で囲んで、その周囲にたくさんの櫓を配置しました。広島城には櫓が88個もあったとされ、全国有数の規模でした。城内の各所にも、本丸の出入口を守るために、枡形と呼ばれる方形の空間を設けたり、本丸の南側に馬出(防御兵士の待機場所)として二の丸を設けたりしている点などが見受けられます。

【毛利氏の広島城下と天守水流豊かな地形を利用した城郭。外堀には太田川の支流である西の本川、東に京橋川。天守から城下町一帯を一望。城下町からは天守の姿を何処からでも羨望。天守/城郭が城下と一帯化、暮らしが共存した治世。


【広島市全景北から写真】広島市の地勢は毛利氏の時代とほぼ同じ。さらに南に干拓が進み、明治の軍都化で急速に発展、被爆、幾多苦難の復興を経て、人口百万人の政令指定都市に。広島城は「ひろしまのシンボル」です。




城郭の場所と天守の位置をを決めた

新しく城を築く立地を選定するために、天正17年(1589年)2月に毛利輝元(36歳)は、太田川の河口の地「五か村」を訪れ、そこにいくつも広がるデルタを見分したようです。見分の際には、明星院山(双葉山)、新山、己斐松山(旭山)の3つの山に登りました。新山は「見立山」と呼ばれ、城の適地を見立てたことから呼ばれるようになりました。こうして輝元はデルタの中央にあたる一番広い砂州を城地に選びました。そこは箱島(白島)、広瀬、平塚、鍛冶塚、在間の5つの集落で「五か村」とよばれていました。その地に新しく地を開くと地名を付けるのが常ですが、「広島」の地名は、毛利家先祖の「大江広元」から、「広い島」から、などがありますが、定かではありません。

【見立て山】見立て山に登って城の適地を見立てたとありますが、山頂からは広島市内、さらに似島の安芸小富士や宮島の弥山も見えて、今でも散策コースになっております。


【戦国武将は風水を】戦国武将もお城を築く時には風水を、特に「鬼門」を意識していました。吉の方角「北西と南東」には天守や表口である「大手門」をもってくると縁起がよいとされておりました。




望楼型天守から城下を一望

天守はその建築様式によって、古い形式の「望楼型」と新しい形式の「層塔型」に大別されますが、広島城大天守は望楼型です。 望楼型とは入母屋造の大きな屋根を持つ基部の上に望楼(物見)を上げたもので、広島城天守の場合二層までが基部、3層より上が望楼になります。「層塔型」は積み重ねで関ケ原合戦以降に造られるようになりました。天守の建物の高さは26.6m(8位)、天守台(12.4m)を入れると39m(3位)もあります。

【堂々としたたたずまい】広島城の天守は、西日本に多く造られた五重天守の中でも、屈指の優美な天守と称されております。


【回廊(廻縁)】5層の外側には回廊(廻縁)と手すり(高欄)があり、国宝指定法の指定文には「~~すこぶる荘重の外観を呈している」と評されていた。


【天守5層回廊より南】現在では、南に紙屋町方面、グレドビル、グリーンアリ-ナが見えます。毛利の時代には、南へと干拓が進む様子、瀬戸内の海が見えたはずです。


【天守5層回廊より東】現在では、東に遠く比治山が見えます。城主が浅野氏に変わってからは、さらに「縮景園」が一望されたはずです。縮景園からも広島城の天守が見えたそうです。




広島城の天守はすごかった

今の広島城の天守は大天守のみですが、明治の排城令前の江戸時代までは3層3階の小天守が南と配置されておりました。それぞれの小天守は大天守とは渡櫓で連結されており複連結式と呼ばれております。このような連結式は規模が大きくなるため例が少なく、さらに3層の小天守の2基連結は他に類例がない大変壮大なもののようでした。関ケ原以前に建築された最古の天守で、城郭建築史上重要な天守とされた。五重天守は高層な故に火災落雷受けやすく、戦前まで残存していたのは奇跡であり、この歴史的天守が惜しくも原爆の爆風で倒壊したことは、専門家にとっても市民にとっても残念なことです。

【東小天守】南及び東に3階建ての小天守があり、それぞれを渡櫓で結んだ連結式の天守であった。この本来の姿が広島城をもっとも特徴づけるものだった。天守台の下からの高さは12.4m、大天守の高さは26.6mがあり、高さ約30mの大坂城よりは少し小さかったが、天守群の規模では大坂城に見劣りしないものであった


【南小天守】南及び東に3階建ての小天守があり、それぞれを渡櫓で結んだ連結式の天守であった。この本来の姿が広島城をもっとも特徴づけるものだった。天守台の下からの高さは12.4m、大天守の高さは26.6mがあり、高さ約30mの大坂城よりは少し小さかったが、天守群の規模では大坂城に見劣りしないものであった。




天守台の石垣は何処から

広島城の天守は毛利輝元によって1589年(天正17年)から約10年かけて築城されました。当時、天守台の石とその石垣の積み方は、自然石をほとんど加工せずに積み上げる「野面積み(のづらづみ)」が多く見られました。広島城の石垣は、築城時から現代に至るまで、時代とともに技術が進化し変化しています。場所によって石の加工方法や積み方が異なるのは、それぞれの時代の城主が改修・改築を行ったためです。材料の石は近くの山から海から採掘し、地域土着の石工集団が石垣などの施工に携わったようです。また、石材は海上と陸上を組み合わせて慎重に運ばれました。

【天守台の石垣】広島城の石垣の探検はとても面白い。小学生の子供たちが先生に引率されて城内の石垣を見学見て回るほどです。毛利元就、福島正則、浅野の時代それぞれです。そして、土木と建築の基本が天守に詰まっています。400年余りこの城台が天守を支えました。


【天守築城の資材調達】こちらはSample-02のテキストです。広島城の石垣の中には、近くの黄金山(築城当時仁保島という島でした)の近くからない、珍しい石も使われていたようです。




外観から色々なものが見える

天守の外観をよく見ると色々なものが見えてきます。外観には先ず城主の気風が天守の装いに現れます。広島城天守は、豊臣五大老の一人である毛利輝元の権力を誇示した堂々たるたたずまいが、最上階の廻縁(高欄)、装飾の華頭窓、黒墨塗りの下見板張板、望楼天守から伺えます。叉、各重の屋根には隙間なく千鳥破風が置かれ、懸魚、鬼瓦など装飾性豊かな天守となっております。


【鯱(しゃちほこ)】鯱は頭がトラ、体が魚の想像ⓙ父の生き物です。海で暮らしていることから建物を火災から守ってくれると言われております。「金箔鯱瓦」が発見されたが天守の鯱かは定かではありません。


【華頭窓(かとうまど】5階5層の回廊(廻縁)にある吊り鐘状を模した枠の窓で、豪華な窓とされております。鎌倉時代に中国から伝わった仏教建築です。天守建築では格式の高い窓とされております。


【懸魚(げぎょ)】破風の下にある懸魚は、燃えやすい木造建築の屋根に水を象徴する魚を懸けることで火伏せのおまじないとしたことからきたとか


【鬼瓦(おにがわら)】屋根の尾根の両端にある大きな瓦で装飾瓦です。日本建築では棟の端に雨の侵入を防ぐ役割があります。




【破風(はふ)】破風は切妻、入母屋造りの屋根の両端の場所装飾を「入母屋破風」雨除けと美観を保つ。これに対して直角な方向の部分に同じ破風を造ると「千鳥破風」呼ばれます。千鳥破風は装飾の意味合いが強いようです。


【石落とし】敵が城壁に近づいてきたときに、上から石を落として、又は、弓、鉄砲で撃退するための仕掛けですよ。敵を城に寄せ付けないための、大切な防御方法です。








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