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「観光アシスタントひろしま」は広島を心から愛する人たちが自主的に運営しているボランティア団体です。

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原爆死没者を慰霊する【被爆者の悲しみを知る】

 



広島の復興は平和記念公園の建設へ

1945年(昭和20年)8月6日、月曜日の朝は快晴で市民はそれぞれの場所に出向いておりました。真夏の太陽がのぼる午前8時15分、世界で初の原子爆弾が広島市に投下され、爆発の瞬間、強烈な光と熱線と爆風、放射線が放出され、街は一瞬のうちに壊滅し、子供から老人まで多くの尊い問命が奪われました。かろうじて生き残った人も、心と体に大きな痛手を受けました。被爆後70年間は草木も生えないとされていましたが、被爆後まもなく、銀行の再開、路面電車の一部運転の再開など、復興への芽は広がって行きました。廃墟と化した広島ですが、「市民生活の安定」と「広島市の復興」をいかに早く成し遂げるかという深刻な問題をかかえながらも、市民も行政も一刻も早く立ち上がろうと努力しておりました。
広島市復興都市計画の策定の経過の中で、爆心地である中島地区を中島公園、後に浜井市長が一帯を平和公園として世界的な聖地として設計することを決定されたようです。さらに「広島平和記念都市建設法」が住民投票を経て、1949年(昭和24年)8月6日に施行されました。


広島平和記念公園の3つの大切な思い


広島平和記念公園の願い
広島平和記念公園は、に投下された原子爆弾の犠牲者を追悼し、世界中の人々に平和の尊さを伝えるために作られました。単なる公園ではなく、平和への強い願いが込められた場所なんです。
込められたの思い この公園には、大きく分けて3つの大切な思いが込められています。

犠牲者の慰霊
 原爆で亡くなられた多くの人々の魂を慰め、安らかに眠ってほしいという祈り。


平和への祈り:
 核兵器のない世界、そして戦争のない世界が実現することを願う気持ち。


●真実の伝達:原爆の悲惨さや戦争の愚かさを後世に伝え、二度と同じ過ちを繰り 返さないという決意



中島町は平和記念公園に

中島本町は、幕末から大正にかけて市内を代表する繁華街として賑わいました。東西のメインの中島本通りには鉄筋3階建ての大正呉服店が営業をしており、そこから南北に走る天神町筋、材木町筋にも店が軒を連ね、映画館、カフェなどがあり、寺院は子供の遊び場にもなりました。被爆から5年後1949 (昭和2486日の 「広島平和記念都市建設法」 の制定にともない、この地区一帯は平和記念施設 として整備されることとなり、現在の平和記念公園に生まれかわりました。公園面積は約122,100平方メートル 。設計は、丹下健三・東大助教授 (当時) 3名の共同作品で、設計競技による 145点の中から入選したものです。 公園の南端 (なんたん) には、広島平和記念資料館 (東館・本館) と並(なら)んで、広島国際会議場があります。

【平和記念公園原爆により焦土化した中島地区は、戦後、原爆で無くなった人々の霊を慰め、人類の恒久平和を祈念する場として、平和記念公園にうまれかわりました。


【平和記念公園】被爆後70年は草木も生えないと言われておりました地も、今では、亡くなった人たちの霊を慰め、平和を祈念する場として世界中から訪れる人々が絶えません。




原爆死没者の慰霊碑

原爆死没者慰霊碑、正式には「広島平和都市記念碑。最初の原爆の日となった1952年8月6日、広島市の平和記念公園整備地(現中区)で平和記念式典があり、原爆で親を失った子どもたちが原爆慰霊碑を除幕した。内部の石室には碑文が刻まれ、原爆死没者名簿が納められました。はにわの家型に造られており、ここに眠る人々の霊を雨露から守りたい気持ちを表しています。はにわの家型に造られており、ここに眠る人々の霊を雨露から守りたい気持ちを表しています。死没者名簿には、日本人だけでなく、韓国・朝鮮人やアメリカ人捕虜などの外国人の名前も載っています。

【原爆死没者慰霊碑】石室の中には死没者名簿が入っています。名簿には原爆でなくなった方やその後被爆者としてなくなった方のうち、名前が判明している方について記入されています。


【原爆死没者名簿毎年8月6日にあらたにお亡くなりになった被爆者が書き加えられます。氏名不詳者多数が1冊ありますが、大変悲しいことです。



静かに眠る供養塔


供養塔は、氏名不詳や一家全滅などで引き取り手のない遺骨を供養するためです。 被爆後、大きな寺のあったこの場所に、無数の遺体が集められ、くる日もくる日も焼かれていました。多くの遺体は、名前も分からず、男女の区別さえつかなかったと言われています。その後、各所に散在していた身元不明の遺体がここに集められました。広島平和公園内の原爆死没者慰霊碑へは、多くの拝礼者が訪れる一方、この原爆供養塔には一部を除きガイドに案内されないと、訪れる人は 数少ない。名も知れず、名前が判明していても引き取られず、また、異国の地で、静かに眠るしかない犠牲者は、これまで、これから先、 何を思って眠るのでしょうか

【供養塔】供養塔の塚の下には納骨堂があり、様々な場所で火葬された、およそ7万柱の遺骨が納められています


【探しております】塚の下には納骨堂があり、今でも氏名がわかっていても引き取り手のない遺骨、およそ800柱が含まれています。





動員学徒慰霊塔


第二次世界大戦中、労働力不足を補うため、勤労奉仕に動員され戦禍に倒れた学徒と、原爆の犠牲となった学徒を含めた約1万人の霊を慰めるため建立されたものです。平和の女神像と8羽の鳩を配した高さ12メートルの有田焼の陶板仕上げで、末広がりの5層の塔の中心柱には、慰霊の灯明がついています。碑文には、「第二次世界大戦中増産協力等いわゆる勤労奉仕に動員された学徒は、全国にわたり三百数十万人。あたら青春の光輝と、学究の本分を犠牲にしつつ挺身した者のうち、戦禍にたおれたものは一万 有余人。その六千余人は原爆死を遂げた。この塔は明眸青雲を望み、将来空高く羽ばたこうとした夢も空しく、祖国に殉じたそれら学徒の霊を慰めようと有志同胞の手によってうち建てた。」とあります。

【動員学徒慰霊塔】戦争の終わり頃、12、13歳の男女の生徒学生は建物疎開作業などに、14歳から17歳の生徒学生は軍需工場に動員されていました


動員学徒悼歌動員学徒悼歌(とうか)「ほのおはてては」が記されています。親兄弟仲間が戦地戦火で倒れていく行く国家総動員の中、切ない心情の歌。



原爆の子の像


2歳の時被爆した佐々木禎子さんは、幸いけがもなく、元気で活発な少女に成長 しました。ところが、10年後の小学校6年生の時に突然白血病と診断され、8か 月間の闘病生活の後、1955(昭和30)年 10月25日に短い生涯を終えました。 禎子さんは「鶴を千羽折ると病気が治る」と信じ、薬の包み紙や包装紙などで1,000 羽以上の鶴を折り続けました。病気を乗りこえ、懸命に生きようとしました。佐々木禎子さんをはじめ原爆で亡くなった多くの子どもたちの霊を慰め、世界に平 和を呼びかけています

【原爆の子の像】湯川秀 樹博士の筆による「千羽鶴」、「地に空に平和」の文字が彫られた銅鐸を模した鐘が つられています。


【碑文】「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」



原爆ドーム

原爆の投下により、建物は一瞬にして大破し、天井から火を噴いて全焼、中に いた30人余りの人々は全員死亡したと伝えられています。爆風がほとんど真上 から働いたため、壁の一部は倒壊を免れ、ドームの鉄枠とともに象徴的な姿をさ らしました。そして、「原爆ドーム」は頂上円蓋の残骸が傘状になっている姿から「いつ頃からともなく、市民の間から誰いうともなく自然に言い出された」といわれております。人類史上最初の原子爆弾による被爆の惨禍を伝える歴史の証人として、また、 核兵器廃絶と恒久平和を求める誓いのシンボルとして1996(平成8)年12月 「世界遺産条約」に基づきユネスコの世界遺産一覧表に記載されました。登録名 称は「広島平和記念碑」です。別名、「負の遺産」ともいわれております。


【原爆ドーム】大正時代に広島県物産品の販売促進を図る拠点として造られた陳列館は、戦争が激しくなる前まで産業奨励館と称し、市民の社交場として賑わっておりました。。


【灯篭流し】多くの人々が水を求めて命を落とした元安川をはじめとする川に灯籠を流すことで、被爆者の霊を慰め、平和への願いを新たにするとあります。



原爆犠牲教師と子どもの碑

ぐったりした教え子を抱え、自らも被爆した女性の教師が、悲嘆にくれ空を見上げ ている(高さ2.4mのブロンズ像) 建立の目的 原爆によって生命を奪われた子どもと教師を慰めるとともに、「三たび原爆を許し てはいけない」という平和教育を、現在及び未来に推し進める決意をあらわします。戦争が激しくなると、都市部の初等科の3年生以上の児童は空襲を避けるため田舎へ強制的に疎開させられました。 幼いため親元に残された 1、2 年生と、建物疎開作業に従事させられた高等科(現在の中学1,2年生)の 生徒が原爆の犠牲になりました。教師約200人、子ども約2,000人と推定されています。戦争が終わり疎開していた初等科の3~6年生は帰るところを失い戦争孤児となりました。


【原爆犠牲教師と子供】原爆の劫 火の中で、教師を頼りながら死んでいった児童、生徒と、彼らを気遣いながら死ん でいった教師の無念さを表現しています


【碑文】「太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり」(正田篠枝)









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